お知らせ
ムーミン小説1 作目の出版「小さなトロールと大きな洪水」から「メッセージ」まで。

先日、ムーミンの1作目誕生から80周年について書きましたが、内容としてはほぼトーベ・ヤンソンの1作目誕生までに至る人生についての記事になってしまいました。
2025.07.08投稿 2025年は「ムーミン」小説1 作目の出版80 周年です。
今回は1作目発表からの人生についてお話したいと思います。
1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版されてからその後、どのような人生と作品だったのでしょうか?
この『小さなトロールと大きな洪水』は、粗末な装丁で人知れずひっそりと出版されました。ムーミントロールの母子が、失踪してしまった父を捜す道のりを描いた物語です。1945年といえば第二次世界大戦の終戦の年です。戦地に出兵した父の帰りを待ち、探す妻や子どもが世界中にいました。終戦とリンクする内容ですね。ただ、当時は「長靴下のピッピ」が人気でした。それは戦争とは関係の無い内容のピッピと比較すると、戦争の内容が色濃く描かれているムーミンは系統が違う内容として反響があったと言われています。この1作目ですが1991年まで再版される事はありませんでした。
『小さなトロールと大きな洪水』の出版のきっかけになった新聞社の編集長が、アトス・ヴィルタネン。彼については前記事で記載しております。1作目発表の後、彼の故郷オーランド諸島を訪れます。このオーランドの自然と田舎風景が後のムーミンの世界観に影響を受けます。
1946年秋に2作目の『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版されます。続いて3作目『たのしいムーミン一家』の執筆を始めます。1946年の秋には、演出家ヴィヴィカ・バンドレルと交際を始めます。ヴィヴィカはトーベ初めての同性の恋人になります。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになっていきます。
3作目の『たのしいムーミン一家』は、ついに母国フィンランドと隣国スウェーデンで大ヒット!1950年には英訳され、児童文学王国イギリスで出版されます。これもイギリスで大ヒットします。その流れで1951年にアメリカでも出版され、その後、イギリスの大手新聞、世界最大発行部数の夕刊イブニング・ニュースにマンガの連載が決まります。
1954年に連載が始まったムーミン・コミックスは世界中で読まれるようになります。イギリス、スウェーデンで出版され、後にフィンランドでも出版が決定し、次々に世界各国で翻訳され出版されていきます。
しかし加熱するムーミンブームとは裏腹に本来、自分を画家であると考えていたトーベから絵画制作の時間を奪い、代わりに締め切りのプレッシャーと、山のような契約書、自ら行ったすべてのキャラクターグッズやムーミンを使ったプロモーションの監修、打ち合わせにつぐ打ち合わせやメディアからのインタビュー、世間からのムーミン・コミックスは連載の重圧や他の活動との掛け持ちのためトーベにとって苦痛となりっていきます。なんと、1960年から1975年までの15年間の連載は弟のラルスが行います。
そんな折、1958年父ヴィクトルが亡くなります。『ムーミンパパ海へいく』(1965年)は「ある父親に捧げる」と書かれており、これは父ヴィクトルを指していると言われています。
分かれて住んでからの父と子の関係は気になりますが、ネットを探しても出てきませんでした。1970年には母シグネが亡くなり、以前から執筆を進めていた『ムーミン谷の十一月』(1970年)を発表。
母との別れを予感していたかのように、ムーミン一家から母の不在が描かれる物語です。それぞれに問題を抱え、一家を頼ってムーミン屋敷に集まった人々が、その不在に途方に暮れつつも、帰りを待ちながら奇妙な共同生活を送ります。その過程で、彼らの問題は思いもよらない形で解決していきます。
物語は最後に、ムーミン一家の帰還を予感させ、希望とともに終わるのです。ここに小説としてのムーミンシリーズは終了し、以後のトーベは大人向け小説の執筆を続ける事になっていきます。

しかし、小説の終わりは、ムーミンの物語の終わりではありませんでした。トーベ自身、その後に絵本を2冊執筆し、舞台、オペラ、実写テレビシリーズ、パペットアニメーションや、みなさんもよくご存知の日本で制作されたアニメ、美術館、テーマパークとそのムーミンワールドは世界中に広がっていき、トーベはそのどれにも精力的に関わり続けました。ちなみに1971年フジテレビでムーミンの放映がスタート、この時、恋人トゥーリッキと来日しています。1990年76歳の時には、テレビ東京のアニメ『楽しいムーミン一家』の監修で来日しております。
一方、1947年からブレッドシャール島で夏をすごすようになります。ラルスの協力で「風配図」と呼ぶ小屋を建て、旗にはムーミンを描いたようです。
島の暮らしはトーベに平安をもたらしたが、次第に住む人数が増えて手狭になっていき1955年にフィンランド芸術協会のクリスマスパーティでトゥーリッキ・ピエティラと出会い、1956年にトゥーリッキはブレッドシャール島で同棲を始めます。
トーベとトゥーリッキは芸術の方向性が異なっていたようですが人生の価値観は共通していました。この島に記者やファンが増えていくと、2人は離れ小島のクルーヴ島へ移り住みます。2人は夏をクルーヴ島ですごし、冬はヘルシンキのアトリエで寝泊まりしながら制作に没頭していきます。絵画作品の署名は「Tove」から「Jansson」に変えて1960年、46歳の時に画家として再出発をします。

1992年、クルーヴ島での暮らしは不自由な点も多く、年齢による体力の変化も気がかりとなったトーベとトゥーリッキは、1965年から毎年続けてきた島の暮らしを終えます。ヘルシンキのアトリエでも精力的に執筆活動を続け、1990年代に癌をわずらい、公の場に姿を見せたのは1994年にタンペレで開催された国際会議が最後となります。
1998年最後の作品として短編小説集『メッセージ』を発表。
ヤンソン自身が選定したベストセレクションに、書き下ろし8篇を加えた傑作選となっています。自伝的作品集としての側面もっており、学識豊かだった叔父たち、彫刻家だった父、母娘の関係、幼い日の冒険、美術学校の仲間たちなど、身近なひとびとが作品に登場します。
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トーベ・ヤンソンをムーミンの作者としか見ていない人がいるなら、ちょっともったいないと思う。
確かに順序からいうと、ムーミンと呼ばれるトロールのほうが大人向けの小説よりも先に誕生してはいるけれど。それでも、長篇小説や長篇小説を読まずして、トーベ・ヤンソンを読んだとは言えないと思う。本当の意味で読んだとは。その一方で、それを体験できる機会がまだすっかり残っているなんて、羨ましい限りだ。
――――フィリップ・テイルによる本書「まえがき」より
2001年6月27日、86歳でヘルシンキにて老衰のため死去します。
「働け、そして愛せよ」というトーベ・ヤンソンの言葉が残ってます。トーベの生涯の恋人が同性のトゥーリッキ・ピエティラであったことは有名ですが、いつも誰か愛する人が側に居る生涯でしたね。
営業部/本多