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2025.07.08

2025年は「ムーミン」小説1 作目の出版80 周年です。


2025年は「ムーミン」小説1 作目の出版80 周年です。ムーミンの物語が誕生してから80周年という記念すべき年ですね。2024年はトーベ・ヤンソンの生誕110周年。〇周年が今の流行りでしょうか?80 周年のテーマは“The door is always open”。「いつでも歓迎いたします。」ムーミンの日は8月9日、この日は作者、トーベ・ヤンソンの誕生日でもあります。

トーベ・マリカ・ヤンソン(Tove Marika Jansson 1914年8月9日-2001年6月27日)、フィンランド、ヘルシンキ産まれ、小説家、画家、児童文学作家、ファンタジー作家など多彩な才能を持ってます。日本ではMOOMIN(ムーミン)の作家、トーヴェ・ヤンソンと記載されています。世界的にもムーミンの作家として知れ渡ってますが、フィンランドでは画家としての評価も高く、水彩画や油彩画、雑誌の風刺画や公共建築の壁画など多くの作品を残しています。


母はノルウェー出身のスウェーデン人で画家の、シグネ・ハンマシュティエン=ヤンソン。父はスウェーデン系、フィンランド人で彫刻家のヴィクトル・ヤンソン。家ではスウェーデン語を使ってましたが、フィンランドは建国以来、フィンランド語に加えスウェーデン語も公用語としていますが、スウェーデン語系は国民全体の1割未満(現在は更に減って5%程度)にすぎない少数派で、ヤンソン家はフィンランドの中では少数派の家庭でした。言語少数派として育ったことは、トーベの思想に大きな影響を与えたと言われています。

トーベ3歳の時、1917年、フィンランドはロシアから独立宣言をし、内戦に入ります。ヴィクトルも兵士となり、シグネは内戦の戦火を避けて娘とともに故郷のストックホルムで暮らします。シグネはトーベの写真や、トーベが描いた絵を戦地のヴィクトルに送って、それを見たヴィクトルは戦地からの手紙で、”娘が芸術家になると思う”と書き残しています。

幼少期のトーベは、シグネの仕事を見ているうちに真似をするようになり、やがて話を考えるところから、本を作るところまでを1人でするようになっていきます。物語のはじめはムーミンとムーミンママがムーミンパパを探す旅に出る所から始まります。戦禍の中に居る父を想いこの物語が始まったのかもしれません。

父、ヴィクトルはトーベの幼少時代から既にフィンランドでは著名な彫刻家でした。その作品は今でもヘルシンキのエスプラナーディ公園や街中で見ることができます。旅行に行った際は是非、探してみてください。ただその彫刻家としての知名度は上がれど収入は必ずしも安定するものでは無く、ヤンソン家の収入はほとんど母シグネのフィンランド銀行印刷局でのパートや辞典、小説、詩集に挿絵をする商業デザインとしての収入によるものだったそうです。

家計と生活を支えるおおらかな母シグネと、しっかり者の妻のお陰で芸術に打ち込む事ができる父ヴィクトルは、まるでムーミンママとパパを彷彿とさせますね。ただそういった環境だったのでトーベは子どもの頃から絵の仕事で母を助けたいと思っていたようです。そのせいか1927年13歳の時に『サボテンのこぶ』、1928年に『クリスマスソーセージ』という挿絵入りの雑誌を作って学校で販売したそうです。夏になると、ヤンソン家はスウェーデンの親戚がいるペッリンゲ群島のブリデー島に行き、トーベは島の暮らしが気に入りこの経験がムーミンの題材になったり後に島で暮らすようになります。


1927年にヒューヴドスタッドブラーデット紙がヤンソン家の取材に訪れた際、トーベは記者のエステル・オーケソンと知り合い、この事がきっかけになりトーベは14歳の時にスウェーデン語系の週刊誌『アッラス・クレーニカ(みんなの記録)』に詩と絵を発表し、これが作家デビューとなりました。これから長いアーティスト人生が始まります。

1929年11月、トーベ15歳、政治風刺を中心とするスウェーデン語系の雑誌「ガルム」に最初の風刺画が掲載されます。絵につける文章はシグネとともに考え、出版記録をつけ始めます。この記録が後に彼女の軌跡となります。オーケソンの担当によって同誌で絵物語の連載が始まり、『プリッキナとファビアナの冒険』という2匹の幼虫を主人公にしたラブコメディーでした。作者名にはトーベ(Tove)が使われ、プロとしてのスタートとなります。

トーベは作品が家計の助けになることを経験しましたが、印刷された表紙の出来が想像と違っていたため失望したそうです。それ以降、色などの指示を編集者や出版社、印刷担当者に伝えるようになります。ただこのアーティストの渇望感を15歳の少女が持っていた事が驚きです。こういった仕事と並行して自作の著書も進めていきます。

1930年5月にトーベ16歳の時、学校を自主退学し、9月30日にシグネの母校でもあるストックホルム工芸専門学校へ入学します。1933年に修了した際には、装飾絵画で最高成績が与えられ周りには美大への進学をすすめられましたが、学費の捻出や家族の元に帰り仕事で経済的に家庭を支えるつもりでした。卒業式には母シグネはお金が無く出席できなかったそうです。同年、帰国したトーベはヘルシンキで家族と暮らし、父ヴィクトルの母校でもあるフィンランド芸術協会美術学校へ通います。ただ、ここも居心地は良くなく夜間コースを選んで通ったそうです。


ただ通いながら挿絵、表紙、ポスター、絵葉書、装飾、宣伝などの仕事を手がけ、画家としての収入が増えていきます。同時に文章も書き続けており、1934年には最初の短編小説「大通り」を執筆してヘルシンキ・ジャーナルに掲載されます。1935年、21歳の時に画家のサミュエル・ペプロスヴァンニ(サム・ヴァンニ ※フィンランド名)、と交際を始めます。サムは6歳年上で、師弟関係から恋愛に発展。サムのことで日記が埋めつくされるほどになり、結婚の話も出ていたといわれています。1940年頃までは関係が続いたとされています。ふたりはお互いをモデルにした肖像画を残しており、後年、トーベのアトリエの目立つところにサムの肖像画が飾られていたといいます。サムは後に、トーベの友達でもあったマヤと結婚していますが、3人で旅行に行くなど良好な関係を築いていたようです。

1938年1月、24歳の時トーベはパリで生活を始めます。留学費用は、クレヨン・コンテ社の絵画コンクールに入賞した賞金などでまかなっておりました。モンパルナスとセーヌ川の左岸を拠点としておりました。家族に向けた手紙には地図を描いて送り、学んだことをフランス語で記録したりして遊学します。この時期に、かつて両親が住んでいたモンパルナスの一角も訪ねています。美術学校のエコール・デ。ボザールに入学し、アンリ・マティスを敬愛するトーベは、マティスにゆかりがある学校として期待していましたが、教授の指導や先輩との関係になじめず2週間で通うのをやめてしまいます。そこで学ぶ場所を探していたトーベはスイス人アドリアン・オリーが設立したアトリエに通う事になります。芸術の道は自分で探す方針のオリーの考えはトーベのやり方に合いトーベが自分のスタイルを決める助けになっていきます。1939年、25歳の時、イタリア王国を旅行し、ドヴァやフィレンツェの美術館、博物館、修道院、教会をめぐりルネサンス芸術を学びます。ただ、この時、世界では戦争の足音が聞こえ始めます。この時、トーベはナチスドイツを批判する意見を書き残しております。

イタリアからフィンランドに帰って1ヶ月後の1939年9月第二次世界大戦勃発。弟のペル・ウーロフやラルス、友人たちが招集されて兵士となり、1941年フィンランドはソビエト連邦と開戦、北欧というとリベラルで先進的というイメージですが、この頃の時代背景からフィンランドはかなり極めて保守的、父はユダヤ人嫌いの保守派のナショナリストであったが、トーベの若い頃の友人のほとんどが左翼的な人で、その中にもユダヤ人がいました。当時のフィンランド政府はナチスドイツと協力していたためユダヤ人の芸術仲間はアメリカへ亡命していきます。トーベは政治的な意見の違いで父ヴィクトルと対立し、そればかりでなく、父は彫刻家として大きな成功を収めたわけではなく、経済状態も厳しいもの、収入や家事のほとんどが母による物なのも大人になったトーベは子どもの頃見た両親の姿がちがった形で見えてきます。そのフラストレーションもあったのでしょう。一時は父と一緒にいるだけでトーべが嘔吐してしまうほど二人の関係は悪化します。まわりから別居をすすめられるようになります。1942年には口論が原因でヴァンリッキ・ストール通り3番地にアトリエを借り、家族と離れて生活する事になります。


開戦の頃からタピオ・タピオヴァーラと交際したが意見の違いから解消、 1943年には新聞記者であり哲学者、のちに政治家になるアスト・ヴィルタネンと交際を始めます。このアストの存在がムーミンへと繋がる後押しになります。トーベとアストが揃って大笑いする写真が有名ですが、お互いの信頼関係が垣間見えます。アストは世に出る前のムーミンを見て世に出る可能性を見出し、ムーミンの1作目が新聞に掲載されます。この新聞社の編集長がアトス・ヴィルタネン。もしアストが居なければムーミンが世に出る事は無かったかもしれません。権威から距離を置き、自由を追求するアストの姿はムーミンに出てくるあの旅人に似ていませんか?

トーベは度々アトリエで戦争以外に目を向けようとパーティーを開きます。パリ生活をヒントにして芸術家の暮らしを書いた短編「あごひげ」などの作品が好評を呼び、トーベの名は次第に知られていきました。また、『ガルム』誌の風刺画はヒトラーやスターリンの風刺画を連載します。しだいに親戚や友人に会うことを避け、戦意高揚的なものからは距離を置いて制作に集中し、空襲対策の灯火制限の中でも制作を続け、1943年にはレオナルド・バックスバッカのギャラリーで最初の個展を開き、戦時中に80点以上の絵画を販売します。

1944年、30歳の時、フィンランドのウッランリンナにアトリエを構え、生涯この場所をアトリエとします。イラストをはじめとして多くの仕事を手がけましたが、実は経済的には苦しく、この状況はムーミン・コミックスの連載が始まるまで続きます。そして1944年春、以前からスノークと呼んでいたキャラクターを、ムーミントロールという名前で物語を書き始めます。原稿を読んだアトスは好意的なコメントを残しています。5月になるとトーベは原稿をセーデルストレム社に持ち込み売込をします。そして1945年に最初のムーミンの物語が『小さなトロールと大きな洪水』という書名で出版されます。

今年はその初版から80年目。
ここからコミックの連載はまだ先の話になります。




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