お知らせ
北限のお茶、村上茶を3つのフレーバーで佐藤商会が企画販売いたします。

枝豆の美味しい季節になってきました。新潟はお米や日本酒で有名ですが、実は枝豆の収穫は全国1位、ナス、スイカ、にんじんも全国1位なんです。これ実はあんまり県外の人は知りません。何故ならば県外に出さないで県内ですべて消費しているからです。新潟県が広すぎるのも関係しておりますが、わが家はお米は地元の”みずほのかがやき”を食べてます。他にも寿々喜米やきつね米、など県外で有名なコシヒカリを買う事はありません。お酒も近所の高野酒造や笹祝を好んで買います。地元で消費するのが地酒の定義でもあるのですが、有名な越乃寒梅や八海山は自分で購入して飲む事は今までありませんでした。新潟県民になって30年経ちますが「本当に美味しいモノは外には出さない」県民性だと感じます。
【村上茶】ってご存知でしょうか?
新潟県民でしたら、村上茶といえばだれもが知っているお茶です。
江戸時代に栽培が始まったとされる村上茶、今では日本北限のお茶処と言われております。お茶の産地といえば静岡、埼玉、京都や三重、九州も有名ですね。村上茶はやはり県内で消費するので県外に出回る事はあんまり無いです。村上茶の特徴は、甘味と香りにあります。
新潟県村上市は他の産地と比較するとひと冬の期間が長く、年間の日照時間が短い地域です。 冬の間に雪の下で栄養分をじっくり蓄えられた茶葉は旨味や香りの成分が凝縮され、渋味成分が少なくまろやかな、この地ならではの味わいの茶に仕上がります。
村上茶の歴史は古く、栽培の歴史は江戸時代初期(1620年代)までさかのぼります。村上藩の大年寄・徳光屋覚左衛門(とくみつやかくざえもん)が宇治伊勢の茶の実を買い入れ、主要地場産業にしようとしたのがその始まりといわれ、約400年の歴史があります。その後、先人達の努力により栽培・製茶とも改良が続けられ、茶畑の面積は明治時代には400haにもなり、製造された緑茶や紅茶はニューヨークやウラジオストクにも輸出されました。
実は弊社オリジナルのパッケージはこの時の輸出用茶箱のデザインをモチーフにしております。
弊社が取り扱うのは3つのフレーバーです。

■苺薫る村上煎茶
村上の煎茶をベースに苺のフレーバーを加えました。
ふんわりとフレッシュな苺の香りとさっぱりとした味わいをお愉しみいただけます。

■檸檬薫る村上煎茶
村上の煎茶をベースにレモンのフレーバーを加えました。
爽やかなレモンの香りとすっきりとした味わいのフレーバーティーです。

■林檎薫る玄米茶
村上煎茶をベースに、岩船産コシヒカリの玄米をブレンドし、りんごのフレーバーを加えました。
やさしいりんごの香りと、香ばしい玄米が気分を落ち着かせてくれるブレンドに仕上げました。
■美味しい淹れ方
①カップにティーバッグを1つ入れます。
②お湯を150cc注ぎ、3分間蒸らします
③蒸らし終わったらティーバッグを取り出してお召し上がりいただけます。
村上茶はよく「北限の茶」、村上市は「北限の茶処」と呼ばれます。「北限」とは、商業的な茶産地の北限(日本海側)という意味で、村上市以北でも数軒の農家が栽培に取り組んではいますが、自家栽培に近い規模になってしまいました。お茶の栽培としては決して好条件とは言えない村上茶、是非とも、北限のお茶処、村上茶を味わってみてください。


「北限!? あれっ?たしか秋田の檜山茶、宮城の桃生茶があるのに北限って・・・?」と、思う方も居るかと思います。実は村上茶、檜山茶、桃生茶の三つの生産地共に「北限のお茶」を名乗ってます。
この何故?について紐解いているサイトは見当たりませんでした。特に村上茶は商業のお茶処としては北限という言い方をしております。北限も最北端も同じ意味なのですが、ここからは私の想像です。
村上茶の起源は江戸時代1620年、檜山茶は1730年、桃生茶については明記されておりませんが伊達政宗が奨励しておりますので、伊達政宗は1636年没、仙台藩主になったのが1600年、1603年から江戸時代になりますが、1615年大坂夏の陣で政情が安定して自藩にて内政を強化する上でお茶の栽培を奨励した年を考えると1620~1630年前後と想像します。
1620年当時は村上茶が北限、次いで桃生茶、そして、しばらく時が経ち1730年の檜山茶と「北限」が移っていったのではないかと想像します。村上茶の起源は村上藩、大年寄、徳光屋覚左衛門(とくみつやかくざえもん)が宇治伊勢の茶の実を買い入れ、主要地場産業にしようとしたのがその始まりといわれ、約400年の歴史があります。この徳光屋覚左衛門、商人でありながら村上藩の大年寄もこなし、かなりやり手だったのでしょう。
時が経ち、2代覚左衛門が寛文年間(1661~73年)に、蒸して天日で乾燥させた「黒蒸茶」を創製し、これが村上茶として珍重され、その名声は隣国にも広がりました。さらに、茶畑の保護のために瀬波海岸に砂防林を設けるなど、今日の村上の発展に貢献しましたまた。また、もう一方の説で当時の村上藩主、堀丹後守直竒(ほりたんごのかみなおより)が自ら宇治から取り寄せたとの説もあります。
堀直竒(1639年没)と覚左衛門(1634年没)二人は村上藩で共に藩政に携わっていたと想像がつきます。秀吉の小姓から出世し徳川家康からも信を受け京都や江戸での暮らしに精通していた堀直竒、商人として京都や伊勢に出向いていた覚左衛門。村上藩の発展のために「お茶」の生産に取り組んだ姿が思い浮かびますね。
時代背景として江戸時代のお茶は、抹茶だけでなく、庶民の間で煎茶が広まりました。特に、永谷宗円(永谷園創始者の永谷嘉男の曽祖父)によって「青製煎茶製法」が確立され、高品質な煎茶が誕生し、全国に広まりました。また、玉露も開発され、お茶の多様性が増していった事が産地が増えて行った事に繋がる事かと思います。
営業部/本多