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2026.07.29

レオレオニの心に残るワンシーン、絵本のひとコマを切り取ったテーブルウェア。藍色の美濃焼は日本伝統食器を思わせる。


アイトーさんの新作、レオレオニ、藍色の美濃焼はパッと見、日本伝統のデザインを思わせます。フレデリック、スイミー、コーネリアス、あおくんときいろちゃん。みんなご存知のキャラクターが大集合!

レオ・レオニはオランダ出身の絵本作家、イラストレーター、グラフィックデザイナーですスイミーやフレデリックは小学校の教科書にも載っているのでみなさんもご存知かと思います。レオレオニは49歳の時、お孫さんに絵本を書いたのがきっかけで絵本作家としてスタートします。

レオレオニについては過去記事を是非、ご覧になって欲しいです。

2024.06.10 小学校の国語の教科書で読んだ絵本レオ・レオニの『スイミー』。

 


レオ・レオニ(Leo Lionni, 1910〜1999年)
1910年5月5日、オランダのアムステルダムにて、ダイヤモンド研磨工の父ルイス・レオニと、母エリザベトの間に生まれます。父はスペイン系のユダヤ人で祖父の代からダイヤモンド産業に従事する裕福な家庭でした。1922年、レオが12歳の時、両親は仕事の関係でアメリカのフェラデルフェアへ移ります。レオは父方の祖父母のもとで2年間過ごしたのち、1924年にアメリカに移住します。

この時、絵画コレクターの叔父たちの影響でシャガール、ル・フォーコニエ、パブロ・ピカソ、デ・キリコ、パイル・クレーなどの芸術に囲まれて育ちます。

1925年、父親が鉱油製造会社の工場長となったことから、家族でイタリアのジェノヴァへ移り住みます。レオはヴィットーリオ・エマヌエーレ二世技術高校に入学し、この時知り合ったノーラ・マッフィと1931年12月、レオ21歳の時に結婚します。翌年、長男ルイスが産まれます。1933年にオランダへ帰国します。また年末、イタリアミラノへ移ります。1935年に製菓会社モッタへ就職します。ここでは広告宣伝を手掛けます。1937年、モッタを退職しフリーのグラフィックデザイナーとなります。1938年には次男パオロが産まれます。

1939年、第二次世界大戦開戦、この時、イタリア政府による差別的な人種法の公布をうけて、ユダヤ人であるレオは身の危険を察知し、アメリカへ亡命します。この時、イタリア国籍だった妻と子供たちはビザがおりるまで移住できず、約1年後にレオとアメリカ、フェラデルフィアで一緒に暮らせるようになりました。レオはフィラデルフィラの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サンに入社し、1941年にはアートディレクターに昇進、フォードなどの大手クライアントを担当する。1945年、第二次世界大戦は終戦、レオ35歳、この年にアメリカ国籍を取得します。

1953年にはアスペン国際デザイン会議の議長を務め、1957年に妻と共にインドに3か月間滞在し、フォーチュン誌5月号にフォトルポタージュを掲載します。またブリュッセル万博博覧会のアメリカの特設パビリオン「未完成の仕事」の企画制作を担当します。このパビリオンはアメリカの抱えた様々な問題、人種差別や環境問題などを取り上げたものであったが、政治的圧力を受けて数週間で閉鎖されてしまいます。

1959年ローチェスター、ポートランド、サンフランシスコ、フィラデルフィアの美術館で絵画とグラフィックデザインの展覧会を開催します。。同じ年、孫たちを列車で送っていく途中、騒ぎはじめた孫たちを鎮めるために、レオは即興で手元にあったライフ誌の青と黄色の紙をちぎってお話を始めます。これが最初の絵本「あおくんときいろちゃん」誕生のきっかけとなりました。この時、レオは49歳。

1961年、家族でイタリアへ帰国、ここからレオの絵本作家としての活動がスタートします。

1961年、絵本「ひとあし ひとあし」がコルデコット賞次点作に選ばれます。
1964年、絵本「スイミー」がコルデコット賞次点作、「チコときんいろのつばさ」がアメリカ図書館協会最優秀作品に選ばれます。
1967年には「スイミー」がブラチスラバ世界絵本原画展で金のりんご賞を受賞。
同じく1967年インドのアーメダバード国立デザイン研究所でワークショップを開催することになり、友人でアニメーション作家のジューリオ・ジャニーニと共に「スイミー」「フレデリック」のアニメーションを制作します。

1968年「フレデリック」がコルデコット賞次点作に選ばれ、「せかいいちおおきなうち」が児童図書スプリングフェスティバル賞を受賞します。

ところが1984年パーキンソン病を患います。
1986年、ジューリオ・ジャニーニ、アントネッラ・アッバティエッロ(Antonella Abbatiello)と共に「ぼくのだ!わたしのよ!」「さかなはさかな」「コーネリアス」のアニメーションを制作します。

その後も1996年から1997年にかけてイタリアと日本の共同企画による展覧会が開催され、日本では板橋区立美術館、高浜市やきものの里かわら美術館、長島美術館、下関市立美術館を精力的に訪問します。

1993年から執筆をし始めた自伝「Between Worlds」が1997年に出版され、1999年10月12日に老衰で死去します。享年89歳。

日本とは深いかかわりがあり生涯で3度来日しております。
数々の名作を世に出しただけでは無く、生涯、現役のクリエーターであり、その裾野を広げる活動や文化、交流の活動も精力的に行っておりました。

 



営業部/本多